2012年7月27日金曜日

三丁落鼻


 三丁鼻と落殺刑
三丁鼻
桟橋から見た三丁鼻
干潮時の三丁鼻

ある時役人が落殺者をつれて三丁鼻に行き処刑を執行することになった。太陽が東から昇る頃だったという。罪人は、刑の執行前に役人に次のことを懇願した。「太陽を前にして死んでいくのは忍び難い、この世の最後なのでどうか太陽を後ろ向きにして落としてくれないか。」と役人は願いをかなえてあげた。そして落殺の瞬間、罪人は役人をしっかりと抱きしめ奈落の底へと落下していったのである。それ以降、落殺処刑は行われなかったと言われている。[与路島誌:三二][石原2006:233]



前浜(1985年当時)

 前浜 (手前が南)
 トビャラとエンマラク
[石原2006:172、180]
 前浜の南端
[石原2006:172] 
クモデ(現在は埋められて消失)
神人行事が行われた場所
 ウムケ オーホリ

2012年7月26日木曜日

家屋

 調査合宿(1982年2~3月)で使わせてもらった家屋
 家屋の配置
 与路でもっとも古い家屋

船着き場

 向こうに見えるのは請島
手前の船は板付け船に動力をつけたもの
 前代の木造船の「せとなみ」
船着き場付近はまだ埋め立てられていない
シュンヒャン岬と請島(節合わせの島)
太陽の昇る位置で、稲作業の準備や収穫の目安などにした。

水田があった頃


ウブツ山とその麓の水田
←ウブツ山の頂上あたりはチューツブリとかトンニョボネと呼ばれた。頂上には番屋のトウと言われる広場があって、オランダ船がくるのを警戒したという。 [石原2006:230] 







右下 大勝川の水源としてのウブツ
    古くは立ち入りを禁止され、木の伐採は厳禁だった

埋め立てられた水田と、ダムのできたウブツの麓
 ユンダとその麓の水田
ユンダにはアモレオナグの説話以外にもいくつかの説話が残っている。
 [石原2006:210-212]

田植え間近の水田

2012年3月19日月曜日

与路の集落の移り変わり

1957(昭和32)年当時の集落[信川文夫氏より]
左の写真は私が手にしている写真で一番古い与路の集落である。家屋は全て茅葺き屋根で、山も現在と違い上の方まで開墾されているのが分かる。
下の写真は1964年の東京オリンピックの年に撮影された航空写真で、船着き場の位置も現在より中央にあることが分かる。




1964年当時の集落・航空写真[信川文夫氏より]











1964年当時の学校周辺と人文字[信川文夫氏より]




同じく1964年の学校周辺の様子で、家屋の配置がよく分かる。集落の小字名では写真の上の方がウーサ、下の方がナンゴーボラと思われ、宅地も調査していた頃よりも多い。当時は生け垣などが多く、珊瑚の石垣が広まっていくのはこれ以降ではないかと思われる。
下の写真は1980年代の集落の様子である。 中道もまだ舗装されず裸足でも歩ける優しい砂の道であった。








1980年代の集落
1996年8月の集落の様子









下の写真は1996年の集落の写真で、既に中道は舗装されていた。













2008年に訪れた時には1996年よりも護岸の防風林が広くなっており、小中学校も建て変わっていた。何よりも防潮のために前浜の沖にテトラポットが並べてあり、前は間の様子は一変していた。また、船着き場付近も埋め立ててあり、クモデと呼ばれるノロが儀式で用いた場所も無くなり、私にはショックであった。
それらの様子は映像で納めてあり、いずれ機会を見て公開したいと思う。

2012年3月17日土曜日

与路島紹介・与路との出会い

1980年代の与路集落とハミャ島と請島 遠くに加計呂麻島も見える
与路島は周囲一八・四km、面積九・四八k㎡の南北に長い島で、北緯二八度〇分三六秒~二八度三分五四秒 統計一二九度八分三六秒~一二九度一〇分五四秒に位置しており、最高標高は二九七mの険しく山がちの島である。
気候は亜熱帯海洋性気候のため、平均気温は冬季でも一七℃近く、年間気温の三分の一近くが二五℃以上の温暖多湿な地域である。
与路の「シマ」と呼ばれる村落に住む人は1985年(昭和六〇年)当時一〇九世帯、男女合わせて二三九名、一世帯平均二.二名という状況であった。瀬戸内町役場の人口に関する資料は昭和三四年以降よりしかないので、古い時代の正確な数値は分からないが、明治四〇年頃は七四戸、昭和一八年は二二〇戸、一〇二〇名 昭和二四年 二七〇戸 一三四八名、昭和四〇年、一五三戸、七四六名、昭和五〇年一四二戸、四〇一名、昭和五五年一二八戸、三四四名というように、戦後からは極端な過疎になっている。

与路との出会い
おかねアンマのミガク(扇)と神棚
奄美大島の与路島に最初に足を踏み入れたのは一九八〇年の一二月の末であった。当時南山大学の文化人類学研究会という学生のサークルのメンバーと共に調査地を決定すべく下見に出かけたのであった。当初は奄美大島南部の加計呂麻島の集落と言うことでいくつか候補をあげて訪れてみたのだが、計画になかった与路島まで足を伸ばしてその魅力に取り憑かれていったという感じであった。
その後、調査で何度も訪れたがその下見の時の印象が脳裏に焼き付いている。そもそも宿泊した民宿は、前日に行われたという教職員の忘年会で障子が破れてしまっていたことも驚きだったが、区長さんよりその夜に紹介された神人(カミンチュ)でありユタであった、おかねアンマ(お婆さん・故人)の姿や言葉が何よりも我々学生を虜にするにはあまりあるもであった。加計呂麻島の集落が活力を感じさせ無かったのに対し、この島は活きているという実感を得て、我々はここしかないという結論に躊躇いはなかった。
私は与路に訪れた時は、一番最初におかねアンマの家に挨拶に行った。2008年に訪れた時には、既に亡くなられていて、住居も空き家となっていたが、そこに訪れて手を合わせた。このアンマには神人のことを沢山聞いたが、あまり入り浸るので、ネンゴロ(愛人関係)と噂されていると、アンマから聞いて驚いた。それを与路の友人の豊武さんに話すと(2008年に古仁屋の飲み屋で)大笑いされた。アンマは明治38年生まれ、当時でも前歯は1本しかなく、笑うとその前歯が何よりも記憶に刻まれている。 
  サークルとしての調査は一九八一年から一九八二年まで春と夏の長期休暇を中心に二週間ほどの日程で五回行った。