はじめに.
今ごろになって奄美の村落調査にむけての下見の記録を書くのは遅すぎるような気もするが、当時としては船旅など普通のことであったし、海外に行った旅行記ほどの珍しさはないと思っていて放っておいた。しかし、半世紀近く経った近年では東京や関西から奄美に通う船便も無くなり、奄美もかなり変わってきたと思うのでそれなりの価値があると思った。下見の記録は調査後すぐに書いたものではなくて、一年後に大学ノートに書いたもので、記憶だけに頼っていても定かでなくなってきたものもある。しかし、私は自分の体験したことや自分の興味のあったことはわりとしつこく憶えていて、1年後でも経験した場面が目の裏に映し出されていた。それで順を追って想い出しながら正確に記録できたように思う。
私は当時南山大学の二年生で文化人類学研究会の村落調査班というサークルに所属していた。最初から奄美諸島の村を村落調査しようとは思っていたわけではなくて、上級生の班が行っていた奥三河や志摩半島あたりを考えて下見を続けていた。
しかし、やりたいと思える決め手が無くて、かつて卒業生の大先輩が行った与論島の調査に負けないような調査がしたいと思うようになった。そこで大学の倉田勇先生に相談したら、加計呂麻島を紹介されて先生と勉強会も行うことができた。それでとにかくいくつかの村を回ってみようということになったのだ。
12月23日 出発前日
大学の授業は今日でおしまいであった。学食に集まる予定をたててまっていたがNがなかなかあらわれなかった。Nは住んでいる自宅が遠いので、今晩は私の下宿に泊まる予定である。あいにくの雨で彼は動けなくなっているのだろうかと思い電話をしたが誰も出なかった。電話後、学食のいつもの場所に戻ってみるとリュックをもって彼はいた。
研究会の部室で打ち合わせ後、私の池下駅近くの下宿に向かったが、距離もあり雨が降っていて大変であった。下宿で荷物を置いた後で、今池へ買物に出かけた。必需品と土産である。土産は名古屋名物の外郎(ういろう)でなかなか重そうであった。
その夜、先輩や同じ班で今回は下見に行けないメンバーが 差し入れをもって来てくれて、我々と老酒を飲んで一緒に楽しむことができた。
その夜に床についたのは、11時頃であったがなかなか寝つかれず、Nはそのうち話が途切れたと思ったら寝てしまっていた。そして例の高いびきなのフトンをかぶって眠った。
12月24日
朝、暗い5時頃起きて、家を出た雨は既に止んでいた 丸山神社に参ってから寒い寒いと言いながら地下鉄に乗り近鉄名古屋駅に向かった、駅ではもうKがいた。
我々は特急には乗らず、急行に乗ったが通勤者と一緒になり 少し混雑していた。これから奄美へ行くという雰囲気ではなかった
しかし、これから奄美に行くと人が聞いたら少しは驚くかなと思いながら、もう船に乗ることに心がはせていた
鈴鹿を越えるころから雪が景色を支配し始め、あたりは一面白一色となった。奄美の人に雪の話をしてやろうかなんて考えながら雪景色を楽しんだ。
大阪に着いて環状線に乗りかえ、大阪駅で東海道線の下りに乗りかえ神戸元町に降りた。神戸の町は名古屋より寒いような気がしたが、 たぶん六甲おろしというやつであろう。
元町の街は私にはなじみがあって、なつかしく歩いてのだが、だいたいの目ぼしつけて中突堤にたどり着いた。そして待合所に入るともう人だかりで、これ全員が乗れるのかと心配しながら、周りの人が普段目にしている顔と違うこと、全く分からぬ言葉を話していることに、これから異文化の地へ向かうことが実感としてて分った。
整理番与をもらって順を持ち、2等船室に入って自分たちの場所を確保するのがやっとであった。近くには若い学生風の女2人男1人、一人の中年男性、その他さもしい学生風の人、子供連れの婦人たちがいた。みんななれたもので、毛布を確保して寝ころんでいた。中年男性の人から聞く話では悪天候で飛行機が飛ばないので、急に船に変更したといううことであった。
出航時、船の外はテープが飛びかい蛍の光が流れ、人の名を呼び合う声がひとしきりであった。ああ船出だなという感じである。心地よい船のエンジンの音を感じながら、さっそく買い込んだ酒を飲み始めた、中年の人も、「これが酔わんための薬だ」とビールを飲んでいた。もさこい学生はしきりに流行のリュービック キューブをいじっていたが、いっこうにらちがあかないようすであった。
自分たちは奄美の人というものを特別に意識しすぎているため、どうも本土の人と分けて考えたがる。それで周りの人を全員奄美の人かどうか気にかかったが、付近の人は、その風貌から少くとも奄美・沖縄出身者に間違いはなかった。失礼な話だが当時としては、何か少し怖さのようなものを感じたことを否めない
しばらくして、甲板に出たが風が強くて寒くてとてもじっとしていられなかった。夕闇がせまるころ海は荒れだした。食堂が開かないということで弁当の販売があった。
波ばずいぶんひどくなり、老人がまず酔い始め、若い者もまいってきていた。中年男性にいわせれば昔はもっとひどいこともあった そうだ、それでもなかなか慣れないとみえてたいがいの人はまんじりともせず眠っていた。隣の若い男女もだめであった
中年男性と話をしたが、その人は加計呂麻の諸鈍の人であったが学生の調査には年寄りが困っていると言っていた。また、わざわざあの諸鈍ばやしを学者が来ると言っては練習にするそうで、島には若い人もいないのでなかなか大変だということである。
あと、タバコがなかなかないということで買って行ったよが 良いと言っていた。
家は自分で殆どの人が建てるそうで、この人も自分で建てたそうだった。
ソテツがゆのことを聞いたが、それ自体は味は全くなく、おいしいというものではない。、むしろナリミソ(ソテツの実で作った味噌)がなつかしいということであった。奄美はかわってしまうのではないかということに関して、なかなか奄美はかわるものではないという答えがかえってきた。
その中年男性とKが将棋をしたが、途中Kが吐き気をもよおし、だめになった。
自分は小さい頃に乗っていたという自信もあって全然平気で身を起こしこの修羅権をながめていた。










